広島の旅では、尾道にも立ち寄りました。急な坂道に古民家が立ち並び、映画のロケ地として知られている尾道ですが、最近は廃屋が増えているのが問題だとか。写真は古民家を改修して、アートスペースとして再生した「尾道アート館」の一画。でもこの施設自体も随分老朽化している。
個人的には廃屋とかの寂れた感好きだからいいけど、アートスペースとしては、ちょっと微妙、かも。
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さて今日の本は、川上 未映子の「ヘヴン」です。
内容紹介
「僕とコジマの友情は永遠に続くはずだった。もし彼らが僕たちを放っておいてくれたなら―」驚愕と衝撃、圧倒的感動。涙がとめどなく流れる―。善悪の根源を問う、著者初の長篇小説。
※「BOOK」データベースより
いじめそのものがテーマというより、
いじめという「出来事」をとおして、
善と悪の価値観を検証したい、
そんな思いで書かれたというこの作品、
その意図は理解できなくもないけれど、
個人的には、その題材の重さを考えると
「おしい」、というのか
微妙に響きが弱いと感じる作品でした。
斜視であることが原因で
クラス中からいじめを受ける14歳の「僕」。
両親の離婚で離れて暮らす父と
繋がる「しるし」として、故意に
不潔な身なりですごす少女、コジマ。
「わたしたちは仲間です」
そう書かれたコジマからのメモをきっかけに
密かに友情を育む二人。
といっても、これは二人の
単なる友情の物語ではない。
いじめを受けている自分達のことを
弱いからただ従っているわけではない、
自分達はすべてを受け入れているんだ、
というコジマ。
それはむしろ強さがないと
出来ないことだと彼女は考え、
この試練を乗り越えた先には
きっと何かがあるはずだと
何度も繰り返し「僕」に語って聞かせる。
対して、いじめる側の百瀬は、
いいとか悪いとか、
そこに意味なんかはなく、人はみな
ただしたいことをしているだけだという。
彼は、「自分がされたらいやなことは、
他人にしてはいけません」なんていうのは
単なるきれいごとで、
自分がされていやなことからは
自分で身を守るべきだと主張する。
苦しみには意味があり、
試練の先に見えてくるものや場所を
「ヘヴン」と呼ぶコジマに対し、
人生に意味なんてなく、
地獄があるならここだし、
天国があるすればそれもここだ、
と語る百瀬。
この対極に位置する二人の言い分を、
語り手である「僕」を媒体にして
問いかけるのが、この小説の
主なテーマなのだろうけれど、
こういった形で、いじめにおける善悪を
語ることには若干の無理があったように思う。
いじめる側、あるいはその行為を
「悪」に据えるのは比較的簡単なことだけれど、
対する「善」と呼ぶべき存在が
この小説の中で希薄なように思うのだ。
例えば、せめてコジマに、
「汝の敵を愛せ」的な発想、
(この場合、いじめる側に対しての愛情や共感)
が存在したうえで「全てを受け入れる」
というのであれば、善と悪の構図も
成り立つのだろうけれど、
残念ながら、コジマの中に
いじめに加担しているクラスメイト達に対する
許容、あるいは理解しようという
姿勢のようなものは感じられない。
なので、いじめを通して
善と悪の価値観を検証したい、
という、この小説のテーマは、
正直あまりうまく機能していないように感じた。
「善と悪」の価値観というよりも、
「弱者と強者」の価値観、さらには
本当の強さ、弱さとは、を問うといった
趣が強いように思うのだけれど、
とすれば、いじめを題材に交わされる
議論としては、割と使い古されたもので、
この小説の中に、目新しい
主張のようなものは感じられなくなってしまう。
このあたりのテーマが
微妙にぶれてしまっているのが
私がなんとも「おしい」と感じたところ。
本書の静かに綴られる綺麗な文章は
壮絶ないじめを描いていてなお
バイオレントな印象は薄く、
その描写はどこか詩的でさえある。
それがまた、巷に溢れた攻撃的な文章よりも
さらに恐ろしさを感じさせもする。
このあたりは好みにもよるのかもしれないけれど、
著者の主義主張的なところはともかくとして、
文学的作品としては楽しんで
(いや、内容的には決して「楽しい」
ものではないのだけど)読むことができた。
個人的には、コジマや百瀬の理屈を
ストレートに台詞にして「説明」するのではなく、
もっと感覚的、抒情的に描いた方が、
より心に響く作品に成り得たのではないか、
そんな風に思えて仕方がない。
色々とケチつける形になってしまったけれど、
この小説が嫌いだというわけでは決してない。
良い要素が沢山詰まっているだけに、
やけに鼻につく理屈臭さが残念なのだ。
まぁ、この理屈臭さこそ、
著者の個性なのかもしれないので、
ここは好みの問題だろうと思う。
ともあれ、この小説の終盤にひとつ
(いやふたつかな?)大好きなシーンがある。
いじめの要因であるはずなのに、
その目のことを疎ましく思う
描写が全編を通して
少ないような気はしていた。
終盤になり、その理由が理解できた時、
その「僕」の健気さがなんだか痛々しくて、
最後で初めて彼のことを愛おしく思えた。
ここでの義母と「僕」の会話は
この小説においては
数少ない救いとなっている。
そして、斜視を直す手術の費用が
たったの一万五千円だという皮肉も
なんだか苦々しくて、でもどこか滑稽な気がして、
ちょっと複雑な笑みがこぼれた。
個人にとっては一大事、
けれど世界にとってはそれだけのこと。
ほんの少し視点を変えれば
見えることが沢山あるのかもしれない。
このあたりのさりげない巧さで、
紹介文にあるような「圧倒的な感動」
とはいかないものの、単純な私は
最後の最後でなんとなく腑に落ちてしまった。
個人的にコジマや百瀬の理屈に
心を揺さぶられるものはなかったけれど、
「僕」が感じ、悩み、そして選んでいくであろう
未来に思いを馳せながら、
肩肘張らず、ただ感じるままに読めば
決して悪い作品ではなかったように思う。
ちょっと騙された感はないでもないけど
結局、終わりよければ、ってことなのかな?
ヘヴン
川上 未映子
★★★☆☆
文庫:320ページ
講談社 (2012/5/15)
¥580
関連サイト
川上未映子の純粋悲性批判
http://www.mieko.jp/
善悪の価値観、問い直す 川上未映子さん長編「ヘヴン」
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200910140280.html
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